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とらドラはハルヒの約2.4倍のスピードで進んでいる

アニメを見ていたら、どうしても原作小説を読みたくなったので、数日前に全部買ってきて、ずっと読んでいた。アニメに追いついて、追い越した。今じゃ、自分がアニメに追われる立場だ。


小説を読んでみてわかったんだけど、アニメ版って相当に展開が速い。いや、アニメだけを見ていたときも、ぽんぽん話が進むなあとは思っていたんだけど、その速さの具合がはっきりわかった。
なにせ、同じ話をアニメですでに見ているはずなのに、やたら新鮮なのだ。メディア間での表現手法が違うから新鮮だとかそういう話ではなくて、初めて知るエピソードがいっぱいある。つまりアニメがいかに飛ばしてるかってことだ。
小説が「グ・リ・コ」で進んでいるとしたら、アニメは「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」ついでに「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」。これくらいのスピード感。


展開が速い速いといっても、比較対象がないと速さってのはわからない。
人間ってのは、あるモノゴトを正しく理解するためにはそれと同質の比較対象を必要とするものだ。
(例:森光子と比べると、堀江由衣は56歳も年が若い)


ということで、同じライトノベルからアニメ化された涼宮ハルヒの憂鬱と比較してみることにした。
原作をどれくらいのペースでアニメ化しているのかを比べてみる。


[ハルヒととらドラのスピードの違い]

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)


まず、ハルヒの場合、この一冊を「涼宮ハルヒの憂鬱 I」から「涼宮ハルヒの憂鬱 VI」までの6話分を用いてアニメ化している。
つまり、アニメ1話あたりで、原作小説の6分の1を消化していることになる。
(短編とかをいれちゃうと、面倒なのでここでは省いた)


いっぽう、とらドラ。
今のところ、アニメは10話まで進んでいるんだけど、これでどれだけの原作小説を消化したのかというと、


とらドラ!1



とらドラ〈2!〉 (電撃文庫)



とらドラ〈3!〉 (電撃文庫)



とらドラ! 4 (4) (電撃文庫 た 20-6)



つまり、4冊。
ということは、とらドラの場合、アニメ1話あたりで、10分の4の原作小説を消化している。



原作消化スピード

涼宮ハルヒの憂鬱  6分の1

とらドラ!       10分の4(5分の2)


 
まあ、ページ数が違うので、おおざっぱな数字だけど、まあ、こんな感じ。
それで、原作の消化スピードを比較してみると、とらドラ!は涼宮ハルヒの憂鬱の2.4倍のスピードで進んでいるらしい。
まあ、これ、ちょっと速すぎじゃねえかと。


アニメがつまらないとは思わない。実際、面白い。
たとえば、大河と竜児が初めて亜美に会うところなんて原作よりもいいんじゃないかと思った。竜児のコーヒーに亜美が砂糖を入れる下りとか。
ただ、もう少し、展開がゆっくりだったら、それだけで、このアニメはもっとよくなっていただろうと思うとちょっと残念な気はする。

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ジョジョのなかで最強なのはカーズ!異論は認める

私はジョジョの奇妙な冒険のなかでいちばん強いのはカーズだと思っている。


OK。
君が何を言いたいのかはわかってる。
「んなわけねーだろ、このバカ!」
そう言いたいんだろ。


たしかに、実際に戦えば、3部のディオのほうが強いだろう。二人とも、漫画のキャラだっていうのに「実際に戦えば」ってのは変な話だけど、実際に戦えば、たぶんそうなるはずだ。


だけど、「カーズがいちばん強そう」と思ってるのは自分だけじゃないんじゃないか、って勝手に私は思っている。
てなわけで、今回はなぜ「カーズがいちばん強そう」なのか、っていう話。


ドラゴンボール型とジョジョ型

これは、ちょっと前に読んでおもしろかった記事。

ジョジョやある時期からのハンターハンターの様な「能力バトル漫画」では、インフレ展開が基本的に起こりにくい。多分理由は幾つかある。

・能力バトル漫画の面白さの肝は、「能力の特殊性」「特殊な能力がどう活躍するか」にある。
・よって、作者は「能力の特殊性」を描写しなくてはいけない。つまり、特殊な能力と、その能力が活躍する為の舞台を考えなくてはいけない。
・必然的に、「パワーの数値的な強弱」だけで勝負を成立させることが出来ない。「何故その能力が勝ったか」の理由づけを考えなくてはいけない。

能力系の漫画がインフレしにくい理由。 - 不倒城

さすがだなあ、この人は、とやたら感心した。こんなことは考えたこともなかったので。


この記事はドラゴンボールはなぜインフレするのかという記事(ドラゴンボール的「転回」とウルトラマンの関係。)を受けて書かれているんだけど、バトル漫画をドラゴンボール型とジョジョ型みたいに分けてみると、おもしろいんじゃないかと思った。
一回、分類してみると、いろんなことが説明しやすくなるような気がする。


たぶん、不倒城さんのおっしゃってることとは、ズレてしまうのでもうしわけないんだけど、乱暴にそして単純に定義してみるとこんな感じ。


ドラゴンボール型
キャラの強さが同一線上で表現される。インフレが起こりやすい。


ジョジョ型
それぞれに特殊能力を持っていて、単純に強弱を表現していない。頭脳戦になりやすい。インフレが起こりにくい。


ドラゴンボールで印象的なのがスカウターっていう道具で、要するにアレは、強さというものが、同一線上で比較可能だという発想に基づいてる。そういえば、キン肉マンでも強さを数値化して示していたっけ。


一方、ジョジョでも強さが数値化されて示されてるところがあるんだけど、ドラゴンボールみたいに単純なものじゃない。
たとえば、第5部の主人公、ジョルノ・ジョバァーナのスタンド能力はこんなふうに示されている。

ゴールド・エクスペリエンス(黄金体験)
【破壊力 - C / スピード - A / 射程距離 - E(2m) / 持続力 - D / 精密動作性 - C / 成長性 - A】



ジョジョでは強さというのは、複合的で、そしてあいまいな概念だ。


ちょっと話はズレるけど、UFC、また後継のプライドといった、何でもありの総合格闘技というものはもともと「最強の格闘技は何か?」「最強の格闘家は誰か?」といった問題意識から発生していた。
まあ、UFCはグレイシー柔術の宣伝の場として始まったのは確かなんだけど、それが支持されたのは「最強が何であるのか知りたい」という強い動機が格闘技ファンの側にあったからだ。
しかし、歴史を積み重ねるにつれ、あきらかになったのは「最強なんてものはどこにも存在しない」という逆説的な真実だった。
強さというものは、あくまで、物事の一面を切り取ったものでしかない。ある条件下では強いものがある条件下では弱くなる。
たぶん、これはほとんどの格闘技ファンの共通認識だと思う。


だから、強さというものが同一線上で表現されることには、個人的には多少の違和感があったりもするんだけど、これは漫画という表現物での話なので別にかまわない。事実、ドラゴンボールもキン肉マンもおもしろいわけだし。


ドラゴンボールでの強さのインフレということを考えると、重要なのが「修行」という要素なんじゃないかと思う。
頭脳戦を描かない以上、強敵に勝利する、つまりは強敵よりも強くなっていることを読者に納得させるためには、修行という、主人公側の努力と時間的経緯を描くしかない。
ドラゴンボールのなかで、いったい何回修行シーンが出てきたっけ?何回かはわからないけど、とにかくいっぱい出てきた。


このドラゴンボール型ジョジョ型というのは、あくまで抽象化したものだ。つまり、細かな部分は無視してるってこと。


だから、もちろん、ドラゴンボールにもジョジョ型の要素はあるだろうし、また、ジョジョにもドラゴンボール型の要素はあるだろう。
というか、ジョジョの奇妙な冒険の1部と2部は、これをジョジョ型と呼んでいいのだろうか?ジョジョがジョジョ型じゃない、ってのも変な話だけど、2部までに関しては、かなり、ドラゴンボール型の要素が強いように感じられる。


ジョジョの奇妙な冒険 (6) (ジャンプ・コミックス)
ジョジョの奇妙な冒険 (6) (ジャンプ・コミックス)


1部、2部でもたしかに頭脳戦で勝利をつかむ、という形が多いし、その点はたしかにジョジョ型だ。


だけど、味方側のキャラにはそんなに特殊能力がつけられてはいない。シャボン玉で戦うシーザーなんかもいるけど、シャボン玉とかそれ以前に、みんな「波紋」という共通した能力を使ってる。
つまり、味方側のキャラに関していえば、強さが同一線上で表現されているといっていい。
一方、敵側と味方側では能力の断絶があるわけで、どっちが強いかというのはなかなか言いにくいんだけど、とりあえず敵側キャラの間では強弱というものは同一線上で示されている。
そして、3部以降では見られなくなった「修行」が1部、2部ともに行われている点も注目に値する。ジョナサンもジョセフも修行をすることで成長している。つまり、努力と時間経過を強さの根拠としている。


ジョジョがジョジョ型になったのは、3部からなんじゃないかと思う。スタンドという発明がジョジョの奇妙な冒険という漫画をジョジョ型にしたのだ。


2部までがジョジョ型じゃないんじゃないかとする根拠は他にもある。
強さがハイパーインフレを起こしている点だ。


まず、1部のラスボスは吸血鬼のディオ。→2部の冒頭で吸血鬼はサンタナの食料に過ぎないことが明らかにされる。→そのサンタナはカーズ、エシディシ、ワムウの足元にもおよばない。→赤石によって、カーズは究極生命体と化す。もはや、波紋も通じない。


こんなふうに強さがすさまじいまでのインフレを起こしていて、これは3部以降ではあまり見られない現象だ。もちろん、ラスボスがいちばん強いのはどれでも同じだけど、さすがに、ここまでじゃない。


こうしてみると、なぜ、自分がなぜカーズをいちばん強そうに思っていたのかは明白だ。
2部までのインフレバトルの頂点に立っているのがカーズだからだ。
他のラスボスは他者との比較対照によって強いのではなく、あくまで自分の特殊能力によって強いので、カーズほど最強なわけではない。
まあ、実際戦ったら、負けちゃうんだろうけどさ、カーズ。


だけど、ジョジョって2部までで、ドラゴンボール型のインフレバトルをやりつくしちゃってるんだなあと思った。「波紋と吸血鬼」という図式では、もうアレ以上の強さというものは絶対に描けないだろうし。


[追記]

ドラゴンボールのキャラが強くなりすぎてしまう理由
すっかり忘れてたけど、そういえば、昔ドラゴンボールのインフレについて書いてた。

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アニメのおっぱい演出について考えてみる

今回はアニメのおっぱい演出について考えてみたい。
まず取り上げてみるのは、三期も決まったらしく大変めでたいので「みなみけ」の6話。



[男目線のおっぱい描写]


春香(長女)に憧れている小学生男子の真(まこと)はなんとしても南家におじゃましたい。だが、同級生の千秋(三女)に嫌われているのでそれもかなわない。
そこで、夏奈(次女)に相談すると「女装すれば千秋にバレない」という、極めて浅はかなアイデアを授けられる。
ということで、女装(マコちゃん)して、南家にもぐりこんでいたところ、憧れの春香が帰ってくるというシーン。



oppaoo001.jpg

1 春香が帰ってくる
(春香の周りはキラキラしてる)




oppaoo002.jpg
2 女装している真を見て女の子だと認識する春香
(このカットでも春香のまわりはキラキラしてる)




oppaoo003.jpg
3 「ここには女の子しかいない」と思った春香は着替えはじめる
(おっぱいがぽろろんってなる)




oppaoo004.jpg
4 それを凝視する真
(小学生だからって女風呂にいれるのは安直な発想だ)




oppaoo005.jpg
5 「お客さんの前で脱ぐな」と夏奈にたしなめられて赤面する春香
(井上麻里奈にだったら、たしなめられるのもやぶさかではない)




oppaoo006.jpg
6 多幸感で悶絶する真
(しかし、この春香の顔ヘンだな)



このシーンでは、春香が脱いでいく過程で、真がそれを凝視してるカットがいくつかはさまれている。



つまり、


oppaoo003.jpg
これとか


oppaoo005.jpg
これは真の主観ショット(=視線)だ。


厳密にいえば、春香のおっぱいを映している仮想カメラ位置はちょい上からなので、真の視線と完全に一致しているわけじゃない。
しかし、それでも、ときどき真の顔のアップが挟まれることで、まるで、真が春香のおっぱいを凝視しているような効果が現れている。


そして、これが真の主観ショットであるかのように感じられるからこそ、この一連の展開はお色気シーンとしてなりたっているのだし、また面白さも生じている。
たとえば、これが夏奈や千秋の主観ショットであるとすると、ただ単に「目の前で姉が着替えをしているだけ」であるので色っぽくもなんともない。もちろん、面白くもない。


春香が脱ぎ脱ぎするこのシーンは真の主観ショットでなりたっているわけだけど、実は春香が脱ぎだす前から、これが真の主観であることが示されている。
どこか?ここだ。



oppaoo001.jpg


oppaoo002.jpg


この二つのカットでは春香の周りがキラキラしてる。
春香に憧れているのは真なわけで、このキラキラは真が春香に憧れていることを示す記号だ。つまり、春香が帰宅した時点ですでに真の主観ショットがはさまれているということになる。


ところで、この二番目のカットはよくよく考えると、ちょっと変じゃないだろうか?


というのも、春香の周りはキラキラしているから、ここの部分は真の主観なのだけど、その真自身がこの画面に描かれているんである。
これは真の主観なのだろうか、それとも客観なのだろうか?ここでは、主観と客観が混じりあっている。


主観ショットと客観ショットをわざと混同することで、叙述トリックを生み出しているといえば映画のシックス・センスがある。それから夏目友人張でも、よく似た手法が使われてた。
シックス・センス、夏目友人張の場合は意図的に混同しているわけだけど、このみなみけのシーンはどうも無意識的にそうなってるような気がする。もっとも、根拠があるわけじゃないけど。


おっぱいに限らず、パンツなどの性的対象をだれかの主観を通して描き出しているのは、よく見かける。
これには二つの意味が込められているみたいだ。
まず、一つには、登場人物の欲望のありかを明らかにすること。
そして、見ている側に、その欲望を伝播させること。このシーンでは真と、それを見ているわれわれは春香のおっぱいに対する欲望を共有している。


こういう主観ショットはみなみけ以外でもよく使われているけど、おっぱい、パンツが画面に氾濫してるにもかかわらず、ほとんど客観ショットで描かれているアニメも存在する。たとえば、ストライク・ウィッチーズ。


パンツ、乳揉み、ベッドでの寝姿と毎回、エロエロなのにもかかわらず、このアニメではあまり主観ショット(かそれに類似したもの)が使われていない。
第9話での芳佳とリーネの入浴シーンなんかはそれっぽいけど、基本的にパンツもおっぱいも客観ショットで描かれている。
これは登場人物がほとんど女に限られているので、女体を欲望の対象として見ていないからだ。まあ、例外もあるけど。あの人とか。


さて、おっぱいを主観ショットで描いたアニメのなかには、とても変わった使い方をしているアニメが存在するのでこれに触れておきたい。
本当は触れなくてもいいような気がするけど、あえて触れておきたい。
アイドルマスター XENOGLOSSIA(2007)。


[アイドルマスター XENOGLOSSIAのおっぱい描写]

アイドルマスター XENOGLOSSIAのおっぱい描写が変わっているとは言っても、そもそも、それ以前に、このアニメ自体が相当に変なわけだ。


原作ゲームではアイドルをプロデュースする話だったはずが、いざアニメになってみたら、

「iDOL(アイドル)」と呼ばれる巨大ロボットに乗って、美少女たち(アイドルマスター)が隕石を落としたり、戦闘したりする話

になってた。
その時点で十分すぎるほど変なので、そのなかの一描写の「変」をわざわざ指摘するのも野暮なことだと思わないでもない。が、一応やってみる。



oppao007.jpg


さて、これは主役の天海春香が水着のおっぱいを披露しているシーンだ。
この画面はある人物の主観ショットでなりたっているのだけど、いったい誰の主観ショットなのだろうか?


これ、ロボットの主観ショットなんである。
つまり、春香のおっぱいを見つめているのはロボットなのだ。
みなみけで春香のおっぱいを凝視していたのは真だったが、アイドルマスター XENOGLOSSIAで春香のおっぱいを凝視しているのはロボット(そういえば、二人とも同じ春香という名前だった)。


このアニメに出てくるロボットには心らしきものがあるという設定になっている。
そのこと自体は別に珍しくもないのだが、アイマスアニメのなかでは女の子たちと巨大ロボットのあいだで恋愛感情のようなものが交わされ、その出来不出来がロボットの活躍に影響してる。
いま、「恋愛感情のようなもの」と書いたが、さすがに恋愛感情そのものではないと思う。だって、相手はロボットだし。


そして、ロボットが女の子に対して「君のことが好きだよ」と意思表示をしているときに、この主観ショットがよく使われている。「見つめること」でロボットは恋愛感情を表現するのだ。
また、この「見つめること」を少しエスカレートさせた意思表示として女の子の姿を「録画する」という手段をロボットがとることもある。これもまた女の子に対する好意表現だ。


ところで、アイドルマスター XENOGLOSSIAのなかでは、基本的に男性は登場してこない。
いるにはいるのだが(爺)、たとえば、マクロスFでのアルトのように、視聴者が自分を重ね合わせることのできる男性はいない。


だが、ストライク・ウィッチーズのように男性主体がまるっきり出てこないかというと、それは違う。
われわれが女の子をいやらしい視線で見つめているのと同じく、このアニメのなかでも女の子を熱心に見つめている存在がいたじゃないか。


つまり、巨大ロボットだ。巨大ロボットこそが男性視聴者の分身なのだ。少なくとも、アニメの作りとしてはそうなっている。


そして、ロボットが女の子を「見つめること」や「録画すること」で感情表現を行うことをあわせて考えると、もっと限定された意味が浮かび上がる。
これはアイドルマスター XENOGLOSSIAにこめられた、製作者側のメタファーだ。


つまり、このアニメのなかでは、どういうわけか、アイマスファンを巨大ロボットとして表現しているらしいのである。






oppaoo007.jpg
これがアイマスファンの姿だ!








oppaoo009.jpg


普通の視聴者は、「まるで自分が巨大ロボットになって女の子と恋愛ごっこしてる」かのような、今までに味わったことのない異次元体験ができ、
また、原作ファンは「意味はよくわからないけど、ものすごく遠まわしに批判されてる」ような気分が味わえるということで、このアイドルマスター XENOGLOSSIAはとても価値あるアニメだと個人的に思う。


ただし、巨大ロボットになって女の子と恋愛ごっこを楽しみたいという性癖を持った人が、製作者側が予想していたよりも少なかったために、不人気に終わってしまったのは残念なことだ。
とりあえず野心作であることだけは確かなのに。その野心がどこを目指してるのかは知らんけど。


[関連リンク]
本当は面白い「アイドルマスター XENOGLOSSIA」


B000X1EF5Cみなみけ 2
越智信次 桜場コハル あおしまたかし
キングレコード 2008-02-06

by G-Tools



B000QUU4GEアイドルマスター XENOGLOSSIA (2)
花田十輝; 竹内浩志, 長井龍雪
バンダイビジュアル 2007-08-24

by G-Tools



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スクールランブル:烏丸の記憶が失われることの意味

この記事はもともと2ヶ月くらい前に思いついてたんだけども、ぼーっとして書くのを忘れてたら、いつのまにかスクラン終わってた・・・・。
さらにぼーっとしてたら、スクラン終わってから、相当の日にちがたってた・・・・・。


てなわけで、早めに書いておかないと、そもそも、何を書くつもりだったのかすら忘れてしまいそうなので、今のうちに書いておきます。



[烏丸の病気]

この漫画の最後のほうで、烏丸がなにやらワケのわからん病気になってしまう。なんでも、記憶を失くしていく病気らしい。たぶん、アルツハイマーかなんかなんだろうけど、よくはわからない。


記憶と感情を失っていく烏丸を天満が看病して、この二人はめでたく(と言えるのかはわからないけど)結ばれる。こういう流れで、スクールランブルは「一応」、終わる。


この烏丸の病気はとってつけたような感もあるし、ハッピーエンドを含んだバッドエンドとしての描き方としてはどうなんだろうと疑問に思わないでもない。つまり、上手い終わらせ方ではないのかもしれない。だけど、この終わらせ方が自分にはなかなか興味深かった。
どこをどう興味深く感じたのかということを説明するために、ちょっとこの漫画の人間関係を軽く振り返ってみたい。



[この漫画の基本になる三角関係]

schoolrumble001.jpg

まず、初期の段階で物語を支配しているのが、この三角関係。


播磨→天満→烏丸
この流れで恋愛感情が流れていて、この二つはともに片思いになってる。
初期の段階では、この三角関係が主流なわけだけど、播磨も天満も、ともに自分の思い込みで暴走して自滅するパターンが多い。
ちなみに、スクランを初めて読んだときに驚いたのは、ラブコメなはずなのに、恋愛対象との会話がほとんどないことだった。播磨も天満も、ほとんど自分の主観(思い込み)のなかで暴走していて、その恋愛対象との会話(播磨だったら天満、天満だったら烏丸)がほとんど描かれてない。
もし、恋愛関係における感情のすれ違いを描くのがラブコメだとしたら、初期段階のスクランは明らかにラブコメじゃなかった。むしろ、ギャグ漫画とでも呼んだほうがいいのかもしれない。



schoolrumble004.jpg


物語が進むにつれて、烏丸ー天満ー播磨の三角関係は物語の遠景に追いやられ、代わりにこの三角関係が表に出てくる。


播磨は一途に天満のほうを見ているが、その播磨に沢近と八雲が想いを寄せている。
ここらへんになってくると、恋愛対象とのすれ違い、またそれによる嫉妬などが描かれるようになり、普通のラブコメっぽい展開が多くなってくる。だいたい、17巻あたりなんて、典型的にそうかもしれない。


ただ、この三角関係を成立させているのは、播磨があいも変わらず、天満を想い続けているというところ。もし、播磨が天満を諦めて、沢近なり八雲なりに想いを寄せてしまえば、この三角関係は崩れてしまうわけだから。
ということで、結局、遠景に退いてはしまったけれど、最初の三角関係が強固に成立しているからこそ、この二番目の三角関係もまた成り立っているということが言える。


それでは、その最初の三角関係はどのような方法で均衡を保っているのか?



[スクラン的三角関係の均衡理論]

schoolrumble002.jpg


まず一つ目の方法。烏丸を空虚にしてしまう。


この烏丸というのは、読者からすると本当に理解できないキャラであって、ほとんど人間味を感じさせることがない。何を考えているのか、そもそも意思の疎通が可能なのかすらあいまいだ。
そのうえ、播磨のパンチを華麗にかわしてみせるわ、実は売れっ子漫画家だわで、超人的である。人間というよりも宇宙人に近い。(そういえば、実は烏丸は宇宙人だったという夢オチがあったっけ)
感情というものを持っているのかどうかすらあいまいな空虚な存在だ。


そして、烏丸という存在が空虚だから、天満の想いは常にかなえられることがない。叶えられたとしても、あくまで部分的な願望が充足されるにすぎない。
こうして、天満の想いは宙に浮いてしまう。



schoolrumble003.jpg


二番目。異常に忘れっぽい播磨。


天満が実は烏丸のことを好きなのだと播磨が気づくのは、2巻の段階である。
ものすごく早い段階で、そのことに気づいているわけだ。


それなのに、播磨はそのことを忘れてしまったかのように、何度も「天満が実は自分のことを好きなんじゃないか」と勘違いする。
播磨がバカだから勘違いしている、という設定になっているのだとは思うが、バカにも程ってものがある。播磨の振る舞いは、「天満が烏丸を好きだ」という事実を忘れているようにしか見えない。


そして、播磨は繰り返し「忘れること」によって、天満を想い続けるのだし、このことによって、一番目と二番目の三角関係は維持されている。



[すべてが反転されて終わりを迎える]


こうしてみると、烏丸が記憶を失っていく病気になったことには二つの意味がある。この二つは、今までこの物語の人間関係を維持してきたものをちょうど反転させた格好になっている。


まず、烏丸が病気になったことだけど、これは、今まで超人的で人間味を感じさせなかった烏丸というキャラが、われわれと同じ生身の肉体を持った普通の人間であることを示している。
烏丸という空虚な存在に実体を与えることで、天満の想いも届くようになった。


そして、次に烏丸が記憶を失って天満と結ばれること。
これは播磨が何度も忘れてしまうことによって、恋愛関係を宙に浮かせていたことをちょうど反転させている。
播磨とは逆に、烏丸は記憶を失うことによって、天満との未然関係に決着をつけた。


こんなふうに考えると、この終わらせかたはなかなか面白いし、また洒落てるなあと思ったので書いてみた。



School Rumble Vol.21 (21) (少年マガジンコミックス)

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ハルヒダンスとらき☆すたダンスはどっちが「カワイイ」のか?

いきなりにもほどがあるんだけど、ハルヒダンスとらき☆すたダンスはどっちがかわいいだろうか?
人気アニメのEDとOPで使われたこの二つのダンスは、その愛らしさとインパクトでかなりの反響をよんだ。それでは、いったい、どちらがかわいいのだろうか?


そんなのは人それぞれの感じ方によるわけで、一概にはいえない。
それはそう。確かにそうなんだけど、この記事では屁理屈をこねまわしてちゃんと論理を構築して、答えを出してみたい。


ちなみに、これから、ダンスについて書いてみるが、いままで私はダンスについて思いをめぐらしたことなど、一度もない。なので、ひょっとしたら、見当違いもはなはだしかったりするのかもしれないけど、そこらへんはあまり気にしない。というのも、見当違いはいつものことだから。


実は、ルルーシュと泉こなたの足の長さは同じくらい


今回のネタはこの記事を書いているときに思いついた。
このなかで私は、コードギアス、らき☆すた、ぽてまよ、と三つのアニメを取り上げ、論評してみたわけだけど(論評してみたわけだけど)、らき☆すたに印象的なダンスがあるように、ぽてまよにも見た人の印象に残るダンスがあることを思い出したのである。


kagepote.jpg


最終回で披露された、このぽてまよダンス。
これが、やたらとかわいい。短い手足を一生懸命に動かしておどっているのが、とても愛らしい。
アニメとしての出来から言えば、ハルヒダンスやらき☆すたダンスとは比べ物にならないんだけど、それでもやはりカワイイ!のである。


このカワイイ!が何に起因してるのかというと、それは「手足が短いこと」なのではないか、と思う。普通の人間が同じダンスをしても、このかわいさは出ないだろう。


「カワイイ」という言葉には、多分に「幼い」というイメージが含まれている。たとえ美形だとしても、山本モナに対して「カワイイ」という形容詞は使われないだろう。つまりは、そういうことだ。


手足が短い=幼い=カワイイ。


「カワイイ」の反対語が何であるか、私は知らないが、たとえば「カッコイイ」なんてのは「カワイイ」の対になるような言葉かもしれない。
「カワイイ」に幼いというイメージが含まれているように、「カッコイイ」には成熟した大人のイメージが含まれている。しかし、たとえ年齢がいっていたとしても金田朋子に「カッコイイ」という形容詞は使われないだろう。つまりは、そういうことだ。


そうやって考えてみると、「カッコイイ」というのは手足が長く見えることだといえるのかもしれない。


ポーズが絵になる画像くれ (ちょっとエロ画像があったりするので注意)





たとえば、ここにはモデルが「カッコイイ」ポーズをしてる画像が多数あるんだけど、下からのカメラアングルが多用されてる。つまり、足の長さを強調してるわけである。
そういえば、石原裕次郎なんかも下からのアングルで足の長さを強調してたし。石原裕次郎って・・・・・・・、いったいいつの時代の話をしてんだか。


さて、「カワイイ」というのが手足が短く見えることだと仮定したら、「カワイイ」ダンスというのは、手足が短く見えるようなダンスのことなのではないか?という仮説をたててみた。


ここでは、ためしにらき☆すたOPにおける、柊姉妹のダンスを見てみたい。この後に、ハルヒダンスとらき☆すたダンスを比較するのに、その当のらき☆すたダンスを例にとるのはどうかと思うけど、あまりそこらへんは気にしない方向で。
(実はマクロスFのシェリルとランカの比較もするつもりだったんですけど、あまりに長くなりすぎるから、カットしました)


[かがみとつかさのダンス]

ということで、らき☆すたの柊姉妹のダンスを見てみることにする。
この、柊かがみと柊つかさというのは双子だ。
双子とはいうものの、かがみというのは、しっかりしていて、お姉さんタイプ。
一方、つかさというのは、天然ボケ気味で、幼い妹タイプ。
つまり、この双子のなかで、「カワイイ」のはつかさで、(つかさと比較したときに)「カッコイイ」のはかがみということになってる。


らき☆すたのOPで、主要キャラの4人には、それぞれ独自のダンスが割り振られているんだけど、ここではこの柊姉妹に割り振られたパートを見てみる。










kagami001.jpg
柊かがみ
モンローウォークっぽい動き





tukasa001.jpg
柊つかさ
両手を組んで頭の横でふりふりする


この二人のダンスを見た瞬間に、かがみのほうが大人っぽく、つかさのほうが子供っぽく(つまり、かわいく)感じるが、その理由の一つは、つかさの手が折りたたまれているからだ。
つまり、その分、手が短く見えるわけである。


これと同じ原理を使って、女の子をかわいく見せるものといえば、女の子走りなどがあげられる。まあ、これはダンスではないけど。


俗に言う女の子走りというのは、手を顔の横でフリフリしながら走るわけだけど、アレなんかも、できるだけ手を短く見せたいとする意識が働いているのではなかろうか。
(例:魔法少女リリカルなのは(一期)での高町なのはの走り方)


ダンスの振りという観点からいうと、足を短く見せるのは難しい。だけど、手を短く見せることだったら、そう難しくはない。このつかさのように。
体の中心線、できれば頭の近くで手を動かせば、手は短く見えるわけだから。


[ハルヒダンスとらき☆すたダンスのどっちが「かわいい」か?]

てなわけで、この視点からすると、ハルヒダンスとらき☆すたダンスのどちらが「カワイイ」か検証してみた。つまり、どっちが手足(というか手)が短く見えるかっていうことである。
ちなみに、ハルヒダンスはもともとEDで流れていたヤツだと、ダンス部分が少なくてわかりづらいので、完全版で見てみた。らき☆すたのほうは、最終回のものではなく、もともとのOPで。





kageharuhi001.jpg
ハルヒダンス1





kageharuhi002.jpg
ハルヒダンス2






kagetukasa003.jpg
らき☆すたダンス1





kagetukasa004.jpg
らき☆すたダンス2





kagetukasa001.jpg
らき☆すたダンス3





kagetukasa002.jpg
らき☆すたダンス4






[結果発表]

あきらかにハルヒダンスのほうがカワイイ。


ハルヒダンスで印象に残っているのは、手を広げているところだったり、サタデーナイトフィーバーしてるところだったりするかもしれないけど、実はそのほとんどは体の中心線付近で手を動かしている。



kageharuhi004.jpg


また、手を伸ばすところでも、こんなふうに前方に出していたりするため、(シルエットだと)手が短く見える。(もちろん、手を横や上に伸ばしているところもちゃんとあるんだけど)




kageharuhi003.jpg


それと比較すると、らき☆すたのダンスは、手を縮めて体を小さく見せた後に、思いっきり手を開放して、体を大きく見せるなど、「カワイイ」よりはむしろ、動きのダイナミズムを主眼にしてるみたいだ。




kagetukasa009.jpg






kagetukasa005.jpg




↓同じくらいのサイズにして両者を並べてみたところ。


haruhitukasa.jpg


もちろん、ハルヒダンスにも手を広げているところはあるし、らき☆すたダンスにも、手を縮めているところがあるわけで、これは程度問題なんだけど、全体として見た場合、ハルヒダンスのほうが手が短く見えるし、また、それゆえに「カワイイ」ということが言えそうである。




涼宮ハルヒの憂鬱 涼宮ハルヒ ビーチサイドver. (1/7スケールPVC塗装済み完成品)




・・・・・・・だけど、個人的にはらき☆すたダンスのほうが好き。






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