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映像作品は悪役の存在を必要としやすい

えっと、今回は前回の続きみたいなもんです。

アニメ版fate/stay nightがイマイチだったのは、「fateは文学」だったからかもって話

前回も触れたこの本を読んでたら、別のことに思い至ったんで、今回はそれを書いておこうかと。

4750000655ハリウッド・リライティング・バイブル (夢を語る技術シリーズ)
リンダ シガー Linda Seger フィルム メディア研究所
フィルムアンドメディア研究所 2000-02

by G-Tools


まずは前回も取り上げた、この部分。

コンフリクトにまつわる問題は、小説を脚色する際に、特に頻繁に起こる。ほとんどの小説はダイアローグ主体であり、登場人物の心理へと読者を誘う。我々は小説を読むなかで、登場人物がどのように考えるのか、何を感じるのか、何に価値を置くのか、どう問題に取り組むのかといったことを学び、登場人物の抱く不安感やこだわり、関心事の中から何らかのメッセージを見つけ出す。こういったことが登場人物をより魅力的にし、読者に読む楽しみをもたらすのであるが、映画に翻案する際には問題を引き起こすことになる。小説はリレーショナル・コンフリクトよりインナー・コンフリクトをより頻繁に使う傾向にある。


つまり、小説と映画では、コンフリクト(葛藤)を扱うときに、手法上の差異があるっていう話。
この小説と映画の部分を、エロゲとアニメに代入して「エロゲ原作のアニメは脚色が難しいんだろーなー」みたいなことを前回書いてみた。。

また、この後に、こんな文が出てくる。

小説に忠実であるとは

・小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させる
・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる

といったことを意味する。


私は脚色の方法論みたいなのにまったくの無知だから「へー、なるほどー」なんて感心ながら読んでた。
しかし、こういうのは実例を思い浮かべながらじゃないとよく理解できないもんだ。
なので、なんか良い例がないもんかと頭のなかを検索してみたら、思い浮かんだのがこの映画。

ショーシャンクの空に
ショーシャンクの空に

この映画がとてもよく出来てるってのは観た人なら、ほとんどが同意してくれると思う。
つーか、個人的に大好きなんですけど、この映画。

これはスティーヴン・キングの小説 『刑務所のリタ・ヘイワース』 が原作。
もともとは、以下の4つの中篇小説を一冊にまとめた形式で発売されている。

刑務所のリタ・ヘイワース 
ゴールデンボーイ 
スタンド・バイ・ミー 
マンハッタンの奇譚クラブ 

これらの小説って、この映画を観る前に全部読んでいたんだけど、実はこの4つの小説のなかで、いちばん印象が薄いのが「刑務所のリタ・ヘイワース」だった。
つまり、この映画の原作がもっとも地味に感じた。

スタンド・バイ・ミーは有名すぎるのでいまさら言うまでもないだろうけど、ゴールデンボーイには元ナチス軍人の老人と少年が出会って少年が狂っていくっていうおぞましさがあって印象に残ったし、マンハッタンの奇譚クラブはこれまた異常なモチーフがありつつも感動させられた。

しかし、刑務所のリタ・ヘイワースは「昔、こんな意志の強い男がいたんだよ」っていう昔語りに終始し、それはそれでいいんだけど、どうもあっさりしすぎているように思った。

この4つの小説のなかでは 

刑務所のリタ・ヘイワース 
ゴールデンボーイ 
スタンド・バイ・ミー

この3つが映画化されている。
ゴールデンボーイは未見なので、これは置いておくとして、スタンド・バイ・ミー。
これはほぼ小説どおりに映画化されてるんで、映画と小説の差異ってところでは特に言うことはない。

しかし、スタンド・バイ・ミーとは違って、小説「刑務所のリタ・ヘイワース」が映画「ショーシャンクの空に」に変換されるときには、かなりの変更点が加えられている。
その変更がこの映画を成功させたところだろうし、また、その変更はこの物語を映画という映像メディアに最適化することを目的としているように感じられる。

小説と映画を比べて、もっとも目立つ変更点というのは刑務所長の悪役化だ。
小説では、単なる脇役にすぎなかった刑務所長が、映画では利己的で金にがめついくせに建前的な道徳を振りかざすろくでもないヤツとして描かれている。
映画のクライマックスでも、この所長が主人公の障害として強く印象づけられ、その障害を主人公が乗り越えることによって、物語のカタルシスがもたらされている。

小説に忠実であるとは

・小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させる
・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる

といったことを意味する。


この小説が映画化されるにあたって、まさしくこの通りの手順で変更されてるってのに気づいてなんか感心してしまった。
刑務所が自由を束縛されたろくでもない場所でそこから逃れたいという、主人公の内面的なコンフリクトを刑務所長を徹底的に悪役にすることで小説の中で暗示されているに過ぎないコンフリクトを表面化させている。

・それぞれのアクトでコンフリクトが明確になるようシーンを再構築する
・コンフリクトがストーリーを通じて1本の筋道を持つよう、それぞれのシーンに質感を持たせる


この二つも刑務所長悪役化のおかげでかなり明確になってる。

つまり刑務所長を悪役にすることで、内面的なコンフリクトを視覚化することに成功しているわけだ。
本来は眼に見えない心の中のネガティブな部分を、悪役として外在化することで観客にわかりやすくしてる。
そして、このわかりやすい悪役の存在によってこの映画は成功している。

すべての映像メディアが悪役の存在を必要とするわけではもちろんないけれども、そういう視覚的なわかりやすさを求めやすい傾向ってのはたしかにある。
こういう傾向ってのが映像作品の欠点なのかどうかってのは正直わからない。
たとえば、大塚英志が「9・11テロ以降のアメリカがハリウッド映画の文脈に沿って行動している」という趣旨のことを書いているけれども、この点に関しては自分にはよくわからないし、実感もわかない。
実感のわかないことについては、とりあえず置いておくことにしてるので(無視するとかじゃなくて、とりあえず置いておくって感じで)、まあ、ここもとりあえず置いておく。
ただ、前の記事でも書いたとおり、表現メディアによって必要とされる要素の差異ってのは確かにあるように思う。

小説(やエロゲー)では内面的なコンフリクトが長々と語られてもそう苦にはならない。
エロゲーって注意してみると、かなり回想シーンが多かったりするし。

けど、映像作品(映画やアニメ)でそれをやられると、やっぱり辛い。
だから、そういうときは登場人物の一人を悪役にして、内面的なコンフリクトを視覚的に明確化してみるってのも一つの手なんじゃないかと思った。

たとえば、これは現在放映されているH2Oというエロゲ原作のアニメだ。








画面左の女の子と言い争うシーンなのであるが、女の子のキャラデザインが同一なので視覚的にコンフリクトを表現できているとはいいがたい。

なので、これをこんなふうに、いかにも悪役然としたキャラと取り替えてみる。











エロゲ原作のアニメはダイアローグ中心で内面的なコンフリクトを描きがちであることは、以前述べたが、こうやって悪役を配することによって視覚的にコンフリクトを表現できるのではないだろうか。

なんか左側の人はあきらかに違う世界の住人だし。
とりあえず違和感を引き起こすことにだけは成功してるといっていい。

しかし、このH2Oっていうアニメは、福本キャラを代入なんていう荒業を使わなくても、二話目にして、一人の女の子が「ゴキブリ、ゴキブリ」と級友たちからののしられ、

あげくには、






汚い汚い便所水(セリフのまま)を引っ掛けられるという、イジメが開始されているので、視覚的なコンフリクトはすでに十分すぎるほど表現されてはいる。

話の展開はどろどろしていて、なかなか面白そうではある。
ただし、まだ二話目だというのに、








作画がびみょーなのはいかがなものだろうか。
びみょーっていうか、true tearsなんかに比べると、はっきりとヒドいんだが。

正直なところ、このアニメを見続けることができるのかどうかには、ちょっとしたコンフリクト(葛藤)を感じずにはおれない。






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アニメ版fate/stay nightがイマイチだったのは、「fateは文学」だったからかもって話

古本屋で買ってから、1年以上、読みもせず放っておいた本。
本棚でホコリかぶってた。

4750000655ハリウッド・リライティング・バイブル (夢を語る技術シリーズ)
リンダ シガー Linda Seger フィルム メディア研究所
フィルムアンドメディア研究所 2000-02

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今年は本をもっと読むことを目標にしてるので、本にかかったホコリを吹きはらってこれを読んでみた。

著者は「ハリウッドでスクリプト(脚本)ドクターと呼ばれる著名なコンサルタント」らしい。
簡単に言えば、映画の脚本のダメ出しする仕事ってこと(でいいのかな?)。

で、この本は映画の脚本を書くとき、またはリライティングするときの手助けを目的として書かれている。
映画の脚本というものは、何度もリライトする(書き直す)のが当たり前らしい。
本の題名も「リライティング」となってるんだけど、別にリライトだけにこだわって書かれているわけじゃなく、全般的な脚本の書き方についての本のように感じた。

ジョーズ、トッツィー、スター・ウオーズ、バック・トゥー・ザ・ヒューチャー、SHALL WE ダンス?といった実例を出して、アイデアのまとめ方から、プロットの構成の仕方、キャラクターの造形などといった、脚本をどのように作っていけばいいのか、ということについて詳細に書かれている。

で、この本のなかには「脚本ってのはこんなふうにすると良くなるよ」ってなことがいろいろと書かれてるわけだけど、この「良くなる」っていうのは別に映画の芸術的価値を高められるという意味じゃない。
脚本をどう改良すれば興行的にヒットする映画が作れるか、っていう視点で書かれてる。
どうすれば観客にストーリーを理解させることができるのか、どうすれば観客に驚きを与えられるのか、この本が扱ってるのはそういう脚本の商業的な価値を高めるための方策についてだ。

こういう本を読むのって初めてだったんだけど、どうも「当たり前のことを専門用語を使って説明してる」っていう感じを与えるところが結構あった。

たとえば、

フォーシャドゥイングとペイオフを使うときに情報を巧妙にカムフラージュし、観客の驚きを喚起しただろうか。


この一文を読んで意味のわかる人ってほとんどいないと思う。
だけど、「フォーシャドゥイング」ってのがいわゆる伏線のことで、ペイオフってのが伏線を回収することの意味だってことさえわかりさえすれば、この文はごく当たり前のことを書いてるにすぎない。

そんなわけで、あまり面白くないところは飛ばし読みしていったんだけど、この本のなかで個人的に面白く感じたところが二つあった。

一つ目が「説明ゼリフと回想シーンはあまり使わないほうがいい」ってとこ。

とりあえず、ここでは回想シーンについて触れられたところを抜粋してみる。

回想もまた、多くの場合、劇的ではなく、単に情報をもたらすためのものだ。回想はたいてい、状況やバック・ストーリー、登場人物に関する情報提供のために使われる。よくライターは回想を使ったことを「登場人物についてより多くの情報を伝えようと思い、過去の回想シーンが現在の状況を説明するのに最適だと思った」と説明する。しかし、回想を使ってモチベーションを説き明かそうとしても、うまくいくことは少ない。これにはいくつかの理由がある。まず第一に、モチベーションは登場人物を後押しするものでなくてはならないからだ。回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ。その上、現在よりも、遠い過去にモチベーションを見いだそうとする。(中略)また、回想はディテールを強調するものであり、劇的な瞬間を作り上げるものではない。登場人物の心の奥にひそむ心理を表面化してくれるが、現在の出来事に直接的な影響を及ぼすことはない。


この著者は「回想シーンを絶対に使うな」とは言ってない.
だけど、回想シーンを使うのなら必要不可欠なところで使うべき、とは書いてる。

この文は映画について書かれたものなんで、TVアニメや漫画にそのまま当てはめるのもどうかと思うけど、そこをあえて当てはめてみると、たとえばNARUTO。

アレって回想シーンがかなり多くて、見ててイライラすることが多い。
NARUTOを冗長に感じるのは、自分だけではないと思う。

もちろん、TVアニメや連載漫画はどうしたって中だるみするもんだから、無駄なシーンをとことんまで省いた映画とは一概に比べることはできないけど、とりあえずイラっとくるのは確か。

そして、面白かったところのもう一つが、コンフリクト(葛藤)について述べられたところ。
*以下で使われてるリレーショナル・コンフリクトというのはたとえば主人公と悪役のあいだのような登場人物間で起こる争いを指し、またインナー・コンフリクトってのは登場人物の内面での葛藤のことを指す(らしい)。

コンフリクトにまつわる問題は、小説を脚色する際に、特に頻繁に起こる。ほとんどの小説はダイアローグ主体であり、登場人物の心理へと読者を誘う。我々は小説を読むなかで、登場人物がどのように考えるのか、何を感じるのか、何に価値を置くのか、どう問題に取り組むのかといったことを学び、登場人物の抱く不安感やこだわり、関心事の中から何らかのメッセージを見つけ出す。こういったことが登場人物をより魅力的にし、読者に読む楽しみをもたらすのであるが、映画に翻案する際には問題を引き起こすことになる。小説はリレーショナル・コンフリクトよりインナー・コンフリクトをより頻繁に使う傾向にある。


この後、映画はダイアローグ主体になってはいけない、みたいなことが書いてある。
なんか、ここは「モノローグ主体になってはいけない」の間違いじゃないか、って感じがしたんだけどダイアローグらしい。
言葉でコンフリクトを表現するよりも、視覚的にコンフリクトを表現したほうが、映画的にはいいそうだ。

で、この二箇所を読んでたら、自然とある作品が頭に浮かんできた。

B0001LV6I8Fate/stay night 通常版
TYPE MOON 2004-03-26

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まあ、エロゲーなんですけど・・・。
というか、ここは話の流れ上、ノベルゲームっていう言葉を使ったほうがいいですね、はい。
上記した小説に関する部分の抜粋って、そのまんまノベル(小説)ゲームに当てはめることができるわけだし。

ということで、このfate/stay nightっていうノベルゲームなんだけども、これには回想シーンがやたらと出てくる。
たとえば、士郎っていう主人公は夜ごとに夢を見るんだけど、それが過去の回想。
過去にどんな惨劇が起こり、その時にどう感じたのかってことが夜ごと繰り返される。
たしか、このゲームの作中時間は15日くらいだったと思うんだけど、そのほとんどの夜で夢を見る。つまり、回想シーンがある。

また、セイバーなどの女子キャラの回想シーンも多い。
たしか、遠坂ルートになると、夜ごとの夢が遠坂の回想になるんだっけか。なんか、ここらへん記憶が曖昧だけど。

このゲームでは、上記した本にあるとおり、回想シーンが登場人物のモチベーションとインナー・コンフリクトを説明する役割を担ってる。
「fateは文学」という、誉めてるんだかけなしてるんだかわかんない言い方があるけれども、この回想シーンがfateの文学性を担保してると言っていい。
ここで登場人物の内面描写が深化してるって意味で。

ただ、この回想シーンの多さってのはちょっとしつこい印象すら与える。
実際、私は士郎の回想シーンになると「またか」と思って、飛ばし読みしてた。

「回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ」
確かに、そう。

これは別に、映画の尺度を用いてfateをおとしめようとしてるわけじゃない。

2時間以内にまとめなければいけない映画と、プレイ時間が数十時間に及ぶのが普通(fateの場合だと平均攻略時間が60時間らしい)のノベルゲーム。
リレーショナル・コンフリクト中心の映画とインナー・コンフリクトとダイアローグ中心のノベルゲーム。(もっとも、fateにもリレーショナル・コンフリクトはちゃんとあるけど)
そもそものメディアの属性が違うんだから、同じ土俵に乗せることはできない。

fate/stay nightのなかで、何度も繰り返される回想シーンってのも、ノベルゲームという媒体だからこそ成り立っているわけだろうから、それはそれでいい。

ただ、これをアニメで表現しようとしたときに、アニメというメディアの特性みたいなもんと、fateの持つ文学性が齟齬をきたしてしまってるような印象は受ける。

B000EBCKM6Fate/stay night 1<通常版>
杉山紀彰 川澄綾子 植田佳奈
ジェネオン エンタテインメント 2006-03-29

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このアニメ版fateって、私には退屈だった。
どうも感情移入しにくくて、主人公が一人で突っ走ってくような印象しか持てなかった。
「主人公のモチベーションが描けてない」っていうアニメ評をどこかで見たんだけど、たしかにそういう感じ。

このアニメを見たのがだいぶ前のことなんで、ちょっと記憶が定かじゃないんだけども、たしか回想シーンはかなり少なかったように思う。
少なくともゲームにあるような執拗なまでの回想の繰り返しはなかった。
ここらへんが、主人公のモチベーションを描けていない理由の一つになってるんだろうと思う。

「回想は、出来事の流れを止めてしまうという性質を持つ」という理由で、アニメでは回想シーンを少なくしてるんだと思うけど、それがこのアニメの欠点になってしまっている。
しかし、原作に忠実に回想シーンを頻出させていたら、今度は逆に「出来事の流れを止めてしま」って、それはそれで上手くいかなかったのかもしれない。

このアニメはほとんどセイバールートなので、エロゲーをアニメ化するときにつきまとう「複数の時系列をどう処理するか」っていう問題には悩まされなかったはず。
それなのに、このアニメがいまいちだったのは、士郎やセイバーなどのインナー・コンフリクトをうまく描けていないせいだ。
その方法論的な原因の一つは回想シーンの少なさなんだろうけど、もっと抽象的に言えば「fateは文学」だったからだと私は思う。
文学、つまりはインナー・コンフリクトが多いせいで、映像化するときに、独特の困難があったんだと、そう思う。

漫画が原作であれば、こういう困難もそうないだろうけど、ライトノベルやエロゲーをアニメ化するには、脚本的にはいろんなレベルの難しさがあるんだろう。
エロゲーは特に難しそう。

ただ、こうやって考えたときに、アニメが「原作に忠実だから良い」だとか「原作に忠実じゃないからダメ」っていうのは、ほとんど意味のない評価軸だ。
なぜなら、それは表現メディアの特性を無視しているわけだから。

ものすごく単純にアニメをそれ単体で見て、面白かったとか詰まらなかったとか評価すればいいんだと思うんだけど、こういうのはたぶんマイノリティーなんだろうなあ。

しかし、今さらアニメfateを語るってのもどうかと。
さすがに忸怩たるもんがちょっとばかりあったりするんですけど。
まあ、いっか。

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歴史に残りやすいアニメ、残りにくいアニメ

昔、山下達郎がこんなことを言っていた。

「ロックと違ってモータウンとかは語りにくいんだよね。それで歴史に残るっていくのは、ロックみたいな言語化しやすい音楽のほうなわけ」

あやふやな記憶をもとにしてるんでぜんぜん正確じゃないんだけど、だいたい、こんな意味のこと。

モータウン(・サウンド)が歴史に残っていないかと言えば、そりゃ違う。
実際に今でもちゃんと聴かれている。
しかし、モータウンのような、人を楽しませるだけに作られた娯楽音楽よりも、ロックのような、社会性だとかメッセージ性みたいなのがある音楽のほうが語られやすいし、また歴史に残りやすいってのも確かだと思う。

実際、歴史に残ってるロックバンドのなかには、今聴くと「なんじゃ、こりゃ」ってのが数多くあったりする。
60年代から70年代にかけての、いまだに名前が残ってるロックとモータウンを聞き比べてみると、明らかにロックのほうに外れが多い。
つまり、ロックのほうがその実力よりも過剰に評価されてる印象がある。
(いちおう、私はロックファンなんだけど)

結局のところ、人が人に何かを伝えようとするときは、基本的に言語による。
そうしたときに、ロックのように「語られやすい」ものってのは、人々のあいだに伝わっていきやすいし、また人の記憶に長く残りやすい。
だから、歴史に残りやすいってことだろう。

別に語られやすいものしか歴史に残らないってことではない(実際、モータウン・サウンドは歴史に残ってるし)。
だけど、人々が語りやすいもの、語りを誘発しやすいもののほうが後々まで人気が続く傾向にあるのはたしかだと思う。


宇宙戦艦ヤマトと機動戦士ガンダム

この二つのアニメはともにアニメブームを巻き起こした作品であるけれども、ガンダムのほうがあきらかに人気が長持ちしてる。
これには、いろいろな要因があるだろうから一概にはいえない。
ガンダムのほうは、いまだに新作シリーズが作られていることもその要因の一つだろうし、またガンプラみたいに長く愛される商品群があることもそうだろう。

だから、ガンダム人気の要因を一つだけに定めることはできないんだろうけど、上述した「語られやすさ」ってのも、要因の一つとしてあげられるんじゃないだろうか。
ヤマトとガンダムを比べると、そりゃガンダムのほうが語りやすいわけだし。

語りやすいということにも、さまざまなレベルがある。
ここはとりあえず、便宜的に話を狭めてみると、ガンダムのほうが文芸批評的な語りをしやすい。
ここで言う文芸批評的ってのは、、作品というものを作家の反映であると無意識的に観じる態度のことを言ってるんだけど、富野由悠季っていう人はそうした語りを誘発しやすいんだと思う。
ガンダムに対する愛情と憎悪だとか、またそれを解消したかに見える∀ガンダムにいたる歴史とか。
その他にもニュータイプがどうこう、っていうのもあるし。
そういうふうに作家の歴史と作品というものを重ね合わせて見るっていう態度が、富野及びガンダムを語るときによく見られる。

それに比べると、宇宙戦艦ヤマトと松本零士のあいだには、そういう文芸批評的な語りがなりたちにくい感じがあるような気がする。
あくまでヤマトはヤマトとしてなりたっていて、わざわざ松本零士という作家を参照しなくてもいい、とでもいうような。
まあ、ヤマトブームのときに、どういう語られ方をしたのかっていうのが私にはよくわからないので、そこらへんは断言できないんだけども。

それと松本零士は富野に比べれば個性の薄い人なので(作品の個性が薄いってことじゃなくて、その人となりが激烈じゃないっていう意味で)、そういう部分でも語りにくさってのはあるだろう。


アニメブームを起こした作品というと、このヤマト、ガンダムに加えてエヴァンゲリオンなわけだけど、エヴァはとても語りやすい。
というか、エヴァについて語ってる人なんて、今まで数え切れないくらい見てきた。
庵野という作家も富野と同じく個性の強い人で、また文芸批評的な語りが成り立ちやすいところも共通してる。
エヴァの人気というのは、10年くらい長続きしてるんだけど、その人気の要因の一つは明らかにこうした語りやすさだ。

「語るべきこと」を見つけるのが苦手な人でも、エヴァだったらそれなりに語れる。
そういう語りに対する容易さによってエヴァは言語化され、言語化されたことによって多くの人々に伝播し、そして、それがエヴァを歴史に残る作品にしてる。

とか言いつつも、自分はエヴァについてなんて語れやしないんだけど。
いやー、綾波が好きとか、そういう低レベルのところでしか語れないな、うん。
ついでに書いておくとガンダムについても語れないと思う。
情けな。

まあ、それはともかく、エヴァの語りやすさというものを考えると、たぶん、ヤマトよりもエヴァのほうが人気が長持ちするんだと思う。
ヤマトの人気がどれだけ続いたのかってのはよく知らないし、また「ヤマトの人気は10年続きました」みたいに数量化できるもんでもないだろうけど、たぶん、人気が永続するのはエヴァのほう。


あずまんが大王は語りやすいか?

ところで、こんなふうに「語りやすい作品は歴史に残りやすい」ってことに思いをめぐらしているうちに、それじゃ逆に「語りにくい作品」ってのはなんだろうと思った。

で、自分の頭のなかに浮かんできたのはこれらの作品。


あずまんが大王(2)
あずまんが大王


苺ましまろ 1 (通常版)
苺ましまろ


ひだまりスケッチ 6
ひだまりスケッチ


みなみけ 2 (期間限定版)
みなみけ


要するに、どうってことない日常をまったり描くタイプの作品。

こういうのって、どこがどう面白いのか説明しにくい。
たとえば、自分はあずまんが大王は漫画のほうはすごく面白いけど、アニメはいまいちと思ってる。
だけど、その差異を上手く説明することができない。
せいぜい「作画がちょっと・・・」とか「リズムがどうも悪いような・・・」とかその程度のレベルでしか言葉にすることができない。

また、これらのアニメの面白さってのにも明らかに差があって、まあ、どれがいちばん面白く、どれが詰まらないかということは、ここでは言わないけど、その差がどこからきてるのか説明できない。
言語化することが難しい。
そもそも、これらは明確な物語がないわけだから、どこをどう語ればいいもんだか見当がつかない。

もっとも、私はガンダムもエヴァも語れないような人間だから、そりゃ語れないのも当たり前な話だけど、私に限らずほとんどの人が、これらを語るのに難儀を感じるはず。
「面白い」とか「〜(キャラ名)が好き」とか、その程度であれば、言葉にできるだろうけど、ちゃんと一本スジの通った語りを成り立たせるのは難しいだろう。
これら日常系の萌えアニメを語ることができるのは頭のいい人、センスのある人に限られていると思う。

上であげた作品が歴史に残るのかどうかについてはわからない。
けど、とりあえず、語られやすいものと比較すれば、相対的に残りにくいんじゃないだろうか。

ところで、上述した日常系の萌えアニメに「らき☆すた」をいれてなかったんだけど、これは意図的にそうしてみた。
というのも、この一年を振り返ってみると、どうも「らき☆すた」ってやたらに語られていたような印象があったから。

これは、らき☆すたのどこが面白いのかわからないっていう人たちがいて、それに反論する形で語られていたように思う。
結局のところ、そういうアンチの人たちのおかげで、議論が活発化し、らき☆すたという語りにくいはずのアニメが語られてきた。
これって実は、とても幸福なことなんじゃないだろうか。

私はらき☆すたに関しては、大好きってわけでもないけど、そこそこは好き、っていう極めてヌルい態度で接してた。
しかし、こういうヌルい好意よりも、「このアニメが嫌いだ、具体的にはここが嫌い」と明確な言葉で示した人のほうが、このアニメにとって有り難かったんじゃないか、ってそう思う。

てなわけで、これから精霊の守り人とDarker Than Blackとバッカーノについて長文で批判してみようかと思ってるところです。

[追記]
囚人022さんがつけてくれたコメント。

>これは「ちょっと待った」と物言いを付けたい部分が多々あります。少なくとも松本零士のキャラの激烈さは富野さんに負けてないよ?

あ、そうなんですか。
松本零士って、温厚なイメージしかなかったです。
ま、パクリがどうしたってとこはさすがに知ってましたけど。

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女の子を一瞬にしてオヤジ目線で見ることができる裏技を発見したので、「みなみけ」で試してみた

皆さんは、FLASHという雑誌をご存知だろうか?

たぶん確実にご存知であることはわかっているけれど、そこをあえて説明してみると、芸能人の密会現場を盗撮したり、女子アナのパンチラ(またはブラチラ)画像を掲載するなどして、日々、国民の知る権利に献身的に奉仕している、感心な写真週刊誌である。

私はふだん、この雑誌を買う習慣がないし、フライデーとFLASHの違いがよくわからかったりするくらいなんだけど、前々から一つ気になっていることがあった。
というか、これは多くの日本人にとって、年金未払い問題に対するのと同じくらいの気がかりな問題、また疑問ではなかろうかと思う。

どうしてFLASHはグラビアアイドルを「クン」付けで呼ぶのか、って。

これはグラビアアイドルに限った話ではなく、この雑誌のなかで「若い女の子」は総じて「クン」づけで呼ばれる。

長澤まさみクンとか、綾瀬はるかクンとか。

アイドルのほかにも女子アナとかもクンづけで表記されることが多い。

最近、FLASHを読んでなかったので、確認のために、さっきコンビニで立ち読みしてきたんだけど、森下千里が出てて、やっぱり森下千里クンと表記されていた。
ついでに書いておくと、雑誌の中盤に川島なお美のワイン講座みたいな企画があったんだけど、これは「川島なお美サン」と表記されていた。

森下千里はクン。川島なお美はサン。

森下千里と川島なお美のあいだにあるもの。
そりゃ、ぶっちゃけて言えば年齢だ。
なお美は「若い女の子」の範疇からは思いっきり外れているわけで、その若くない女に「川島なお美クン」と呼ぶのは明らかにおかしい。

だから、川島なお美との比較で言えば、「森下千里クン」はそうおかしくはない。

だけど、若い女の子を呼ぶときの呼称としては「クン」よりも一般的な「ちゃん」があるじゃないか、という疑問は残る。
「森下千里ちゃん」のほうが、「森下千里クン」よりは自然だろう。
いや、そもそも、芸能人は呼び捨てにするのが一般的だから、森下千里となにも後ろにつけないほうがずっと自然だ。
実際、他の雑誌のグラビアを確認したら、そのほとんどがアイドルを呼び捨てにしてた。
(コンビニでいろいろと雑誌のグラビアを確認してたんで、よっぽどのグラビア好きと思われたんだろうなあ。別に安めぐみとかに興味があったわけじゃなくて、ただ単に呼称を確認してただけなんだけど)

私が思うに、このFLASHの「〜クン」は会社で上司が部下のOLを「〜クン」と呼ぶのを擬制してるんだと思う。
「鈴木くん、このコピー30枚頼む」みたいな。
擬似的な会社組織のようなものを想定して、その枠組みのなかにアイドル、女子アナなどの「若い女」を組み込みたいとでもいうような欲望。
「〜クン」にはそうした上下関係の意識の確認が含まれていると思う。

だいたい、若い女を雑誌で取り上げるというのは、それだけで賛美を意味している。
たとえ、それがスキャンダルのようなものであってもだ。
「われわれはあなたに興味がありますよ」っていうことを意思表示しちゃってるわけだから、そこには需要を発している者なりの弱みがある。
女子アナに興味のない人間にとっては、彼女のブラひもが見えようが見えまいが関係ないわけだけど、女子アナに価値を見出すものにとっては女子アナのブラひもは希少価値だ。欲望の対象だ。
それを裏返せば、女子アナのブラひもを記事にするという時点で、女子アナに価値があることを認めていることになってしまう。
そういう「弱み」を打ち消してくれるのが「〜クン」なんだと思う。

「〜クン」と名前の後につけるだけで、「いくらあんたのことを賛美していようが、こっちのほうが上だから」みたいな意識を暗に示すことができる。
これが「〜ちゃん」だと、そういう上下意識みたいなものは生まれにくくて、ただ単に「あなたのことをかわいいと思っている」というニュートラルな意思表示になってしまう。

芸能人でも身近にいる女の子でもいいけれども、ためしに「〜クン」と心のなかで呼んでほしい。

「いくらアンタが可愛いかろうが胸がデカかろうが、こっちのほうが上だから」みたいな感情にならないだろうか?

ならないだろうか。

ならないだろうか。

ならないだろうか。

とりあえず、私はなりました。

てなわけで、最近、FLASHの「クン」呼びについて考えてた。
もっと他に考えるべきことがあるだろうに、と言われると耳が痛いし、胸が苦しくなるのだけれど、他に考えるべきことを見つけられなかったので、こんなことを考えてた。

で、こんなふうに無意味すぎる考察を続けていたら、あることに気づいた。

「〜クン」と女の子を呼ぶと、とたんにオヤジ目線を獲得できるってことに。

ここはアニメブログらしくアニメで実証してみる。
対象は「みなみけ」というアニメ。


みなみけ 1 (期間限定版)


この「みなみけ」というのは、南春香、南夏奈、南千秋という三姉妹の日常を描いた萌えアニメである。

まずは、長女の南春香から試してみる。
彼女はなぜか両親がいない南家において家事全般をとりしきっているという、なかなか感心な女子高生である。
その南春香に「クン」をつけてみよう。

























どうだ!
良妻賢母タイプの南春香にクンをつけるだけで、あっという間にオヤジ目線を獲得できた。
「クン」を斜めにすると、よりソレっぽい。
それから、名前のあとに(17)と年齢をつけるとオヤジ度数が2割がた上がったような気がする。

ついでに他の二人でも試してみた。
















こちらも「クン」づけ効果により、オヤジ目線を獲得できた。
小学生ですらいやらしい目で見ることが可能になった。
すばらしい。

この裏技を発見してから、いろんなキャラを「〜クン」と呼んでみてオヤジ目線を楽しむという、日本の国益にそぐわないこと甚だしい行為を繰り返していたのだけれど、そうしているうち、あることに気づいた。

どうも「〜クン」がそぐわないキャラがいるってことに。
上であげた「みなみけ」なんかは「〜クン」がとてもはまってると思うんだけど、「〜クン」がどうしてもあわないキャラがいる。
たとえば、コレ。


















「古河渚クン」は妙に変。違和感がある。
これが「古河渚タン」だったらちゃんと合ってるのに。
「クン」と「タン」じゃ偉い違いだ。

この「〜クン」が似合う、似合わないというのは、極めて個人的な感覚なので、理解されにくいかもしれない。
だけど、ここはとりあえず個人的な感覚を述べさせてもらう。
たとえばマガジンの漫画で例をあげると、ネギま!と絶望先生のキャラに「〜クン」はあわない。

神楽坂明日菜クン

風浦可符香クン

どっちも変だと思う。

いっぽう、スクールランブルのキャラには「〜クン」が似合う。

周防美琴クン

沢近愛理クン

ちゃんと「〜クン」がはまってると思う。

いや、「周防美琴クンは変じゃねーか」と文句言われるかもしれないけど、自分は合ってると思うんだな、これ。

まあ、ここらへん読者の皆さんを置き去りにして話を進めたいと思うんだけど、要するに、「〜クン」が似合う似合わないってことを裏返してみれば、みなみけ、スクランはオヤジ目線が似合うが、クラナド、ネギま、絶望先生にはオヤジ目線が似合わないってことだ。

そのことの意味を考えていたんだけど、「〜クン」が似合わないほうの3つって、どれもいわゆる萌え絵的なキャラだってことに気づいた。
絶望先生の絵を萌え絵と呼んでいいのかどうかには、疑問を感じないでもないけど、とりあえず、一般的な(=オヤジ的な)エロティシズムを喚起するような絵じゃないことは確か。

ネギまとスクランを比べてみれば、ネギまのほうに圧倒的にお色気シーンが多いのに、スクランのほうがオヤジ目線で見ることに違和感がないのはそこらへんの差なんじゃないかと。
スクランの絵柄って一般的なエロティシズムの上に成り立ってるように思えるし。

どうでもいいって言えば、どうでもいいことなんだけど、まあ、そんなことを思いました。

ちなみに、すべてのアニメキャラのうちで、「〜クン」が最も似合わないのはこのキャラだと思う。


















「オチが弱い」とかのまっとうな批判は一切受け付けません。あしからず。


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CLANNADが善意で出来ているとすると、ef - a tale of memories.は悪意で出来ている

作画崩壊って単純には表現できない感情を何とか表現しようとした果てでもあるよね

ずいぶんと前の記事だけど、これは素晴らしかった。

なのはの『作画崩壊』の話から、ギャルゲー的なキャラは造形上から表情が乏しいということが書かれている。
私は絵を描ける人間ではないので、こういう視点がとても斬新で面白かったです。
もし読んでない人がいたらぜひ。

で、このなかの一節にこういうことが書かれている。

思うにいわゆる神作画というのは、これまで「アニメの女性キャラの作画で、普段と違って情報量の多い作画の時に使われた言葉」とか、「キャラ表から外れないで動作が丁寧な作画」みたいなニュアンスで使われてきたけど(作画オタの人が言う神作画についてはここでは触れない)、それに加えて「手塚治虫の言うマンガ記号論的な喜怒哀楽の表情から外れない程度に、情報量が多くて丁寧な作画」という側面があるのではないか、と。


手塚治虫のマンガ記号論っていうのは、目や口といった絵を記号のようなものとみなし、その記号の組み合わせで自分の絵が出来上がっている、つまり自分の描いてるマンガは象形文字のようなものではないか、と手塚が語っていた例のアレ。

手塚治虫は自分のマンガを記号の組み合わせで出来ていると(自嘲的にか)みなしていたようだけれども、すべてのマンガ表現が記号的であるとは私には思えない。
たとえば、小畑健や井上雄彦の絵が記号の組み合わせで出来ているのだろうか。

もちろん、見る人が見れば「アレも記号の組み合わせで出来てるんだよ」ということになるのかもしれないけど、とりあえず、私の目にはそう見えない。

一口にマンガと言っても、記号の組み合わせで出来ている度合いってのは、その漫画家によってかなり違ってるように思う。
たとえば、記号の組み合わせの度合いが高いのはケロロ軍曹とか。
アレなんかはまさに記号の組み合わせで感情を表現してるわけだし。

マンガの話はとりあえず、ここではおいておくことにして、ギャルゲーの話。
記号の組み合わせで出来てると言えば、ギャルゲーのキャラってまさにそうだよなあ、ってことをこの記事を読んでて思った。

ギャルゲーをやってるとき、自分は文章を読むのが面倒くさくて、ついついスキップ機能を使ってしまうんだけど、スキップしながらギャルゲーのキャラを見てると「福笑い」を見てるような感覚に陥ることがある。
同じ輪郭のなかで、眉をひそめたり、目をしかめてみせることで感情を視覚的に表現してる。
まさに手塚治虫の記号論と同じ原理でギャルゲーの視覚表現は成り立っている。

また、ギャルゲーは、普通のとき、怒ったとき、悲しいときなどの感情に対応した立ち絵を何種類か作って、それを適宜に出すことによって、キャラの感情を表わすわけだけども、これなんかは感情の記号化とでも呼べるんではなかろうか。

もちろん、ギャルゲーにおける感情表現というのは、視覚的なものに限られたわけじゃない。
文章によって表わすこともできるし、または声がついていれば、声優の演技によっても感情を表現することができる。
だから、ギャルゲーが感情の表現として稚拙なメディアだというつもりはないけれども、こと視覚的な部分に限ってみれば、かなり感情表現が限定されているということは確かだと思う。

で、ここからが本題。

今期のギャルゲー原作のアニメ、CLANNADとef - a tale of memories.。

B000WQ6IXUCLANNAD 2 (初回限定版)
神田朱未 桑島法子 能登麻美子
ポニーキャニオン 2008-01-16

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B000X431E0ef - a tale of memories. 2
やなせなつみ 岡田純子 田口宏子
ジェネオン エンタテインメント 2008-01-11

by G-Tools


この二つのアニメのキャラに対する態度というか姿勢がまったく異なっているのが個人的に面白かった。
原作ゲームはどっちも未プレイなんで、これはアニメだけを見た感想。

まずはCLANNAD。






CLANNADはキャラの表情がとても豊かに描かれているように感じる。
きわめて記号的なキャラにもかかわらず。

これは京アニという会社がこうした記号の組み合わせに習熟してるということもあるだろうし、また表情以外のところで感情を表現してることもあるかもしれない。
たとえば、キャラの動きや仕草とか。

京アニのCLANNAD観察眼

これを読むと原作ゲームをやった人の脳裏に浮かんだキャラの動きや仕草に違和感がないように作られてるらしい、CLANNADって。

こういう部分での信頼感があるから、前記した記事にあったように、観鈴の顔を崩したり、ハルヒの顔を崩したりという、キャラの記号の組み合わせを崩す行為に対してもちゃんと支持が得られるらしい。

京アニのキャラに対する姿勢ってのは愛情であり善意だ。
どれだけ活き活きとキャラを動かすことができるか、そこに情熱が傾けられている。


ef - a tale of memories.

これはCLANNADに比べれば、表情が乏しい。
キャラの動きにもそうこだわっている節はない。

しかも、このアニメのなかでキャラは様々に変形される。





影絵にされたり、切り刻まれたり。
このアニメのなかでは、感情を表現するのに、こんなふうにキャラを変形させることで、そのキャラを見ている人物の内面描写がされていることが多い。

CLANNADのキャラに対する姿勢が全き善意だとしたら、ef - a tale of memories.にあるのは悪意だ。

悪意という言葉が悪いとしたら批評性とでも言っていい。

キャラなんて所詮は記号の組み合わせに過ぎないとでもいうような醒めた意識がなければ、こういう絵にはならないだろうと思う。

それが端的に表れているのがOP。





ここでは、それぞれのキャラが影絵で示された後、崩壊していく様が描かれている。
キャラ自体も記号に過ぎず、それはいつでも壊すことが可能であるという感覚。
ここにあるのは、そんな暴力的な批評性だ。

CLANNADに比べると、たぶんef - a tale of memories.のほうが、萌えという感情を喚起する力は弱い。
それも圧倒的に弱いと思う。
キャラの表情を崩すといったレベルではなくて、キャラ自体を崩してみせているんだから、それも当然だろう。

作り手の側がキャラ自体を記号にすぎないと思っているのかどうか、それはわからない。
作中で京介という映研部員が
「オレはただ斬新な画が撮りたいだけなんだよ!」
みたいなことを言うシーンが何回かあるんだけど、ただ単に斬新な画が描きたいだけなのかもしれない。
だけど、とりあえず自分はこれを悪意だと受け取ったし、また批評性だと思った。

そして、そうであるがゆえにef - a tale of memories.は面白いと思う。
なぜなら、アニメやギャルゲーに含まれる「萌え」を虚仮にしてるような痛快さがあるからだ。

そういえば、手塚治虫もこのアニメと同じように、キャラを影絵にしたりとか、図像の一つとして扱っていたような記憶があるんだけど、そういうところで通底した感覚があるのかもしれないなあ。
キャラは記号に過ぎないという醒めた感覚と、またそうであるがゆえに遊びを入れられる度量みたいなもんが。

前述したように、私はこのゲームをやってないんで原作に対する批評性ってのがどれほどのもんなのかよくわからないんだけど、

ゲーム中のイラストは、他のアドベンチャーゲームに多く見られる立ち絵をベースとするのではなく、イベント画を多用し、ヒロイン分岐を無くすことによりプレイヤーにゲームを攻略させるのではなく、鑑賞させることに重点を置いている。(Wikipedia)


これや、

『ef - a tale of memories.』が面白い!〜アニメにおける「わかりやすさ」の探求〜

僕がminoriの作品で他に知っているのは『Wind -a breath of heart-』くらいなので、あまり詳しいことはわかりませんが、エロゲの欺瞞に対して自覚的なエロゲメーカであることは間違いありません。


これなんかを読むとこうした批評性ってのはもともと原作ゲームに組み込まれていたものなのかもしれない。

とりあえず、ef - a tale of memories.は面白い。
このアニメを見始めたのは日本のアニメは本当に世界一か?さんと tukinohaの絶対ブログ領域さんで絶賛されてたからなんだけど、面白いアニメを教えてもらえて感謝。

[関連記事]
これはスゴイ!『ef-a tale of memories.』第7話が大変な領域に足を踏み入れて来た



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